久原邸
久原邸
久原房之助(1869~1965)、日本鉱山の創業者が、明治41年に大豪邸を建て昭和 3年頃迄住んでいました。
その後、東京へ移り逓信大臣から政友会の総裁まで勤めた人物です。当時の敷地内には果樹園、
病院、発電所等が建てられ、特に子供の為に小さな本物の機関車を走らせていたそうです。又、住吉川上流から鉱山の技術を生かし邸内まで隧道を掘り、冷房用の冷風を引き込んでいました。
現在もその隧道から流れる冷水が西岡本防災ひろば並びにオーキッドコートの敷地内に流れて
います。
岡本
岡本とは旧・本山村時代の大字岡本であり、明治の大合併以前の岡本村の事である。『新 神戸の町名』では岡本という地名は保久良の宮(保久良神社)のある丘の下という意味と推測している。
岡本は古来、梅林の名所として知られ「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と詠われた。山本梅崖の『岡本梅林記』に羽柴秀吉の来訪が記されており、寛政10年(1798年)には摂津名所図会に岡本梅林の図が登場するほどの名所であった。
明治維新後は、国学者大国隆正が、「岡本の梅とききつ来てみれば、梅の中なる岡本の里」と詠じているように全村の各戸に梅の木を植え、増田太郎右衛門所有の3ヘクタールの梅林をはじめとして、相当広い範囲に渡っていた。
明治30年頃から観梅期に旧国鉄が臨時停車駅を設けるようになり、明治38年に開通した阪神電車が青木停留所を設けるに至り岡本の観梅は阪神間における年中行事の一つとなった[2][3]。兵庫津の俗謡でも「梅は岡本、桜は生田、松のよいのが湊川」と詠われた。しかし、昭和13年(1938年)の阪神大水害により岡本周辺の山が崩れ梅林の大半が失われてしまい、残った梅の木も神戸大空襲で焼失し岡本梅林の名声もすっかり失われてしまった。
盛時の面影は現在に残らないが、かつての梅林を偲び、昭和50年(1975年)に保久良神社境内に保久良梅林が植樹され、同56年(1981年)には岡本六丁目に岡本梅林公園が作られた。
住吉
南斜面で水に恵まれた住吉エリアは、太古から居住に適した土地だったようだ。現在のJR住吉駅一帯は弥生時代から近世にかけての複合的な遺跡、住吉宮町遺跡で、古墳や集落の形跡が確認されている。飛鳥時代には律令制でここに住吉郷がおかれた。戦国時代までには村ができ、太閤検地のあとは豊臣家の直轄地となる。江戸期には農業のほか、水車業や御影石の切り出しも盛んだったらしい。
明治7年(1874)官営鉄道が開通し、住吉駅が開業。その後、明治後期になると良好な環境に富裕層が着目し、住吉は郊外住宅地として発展していく。
明治33年(1900)頃、朝日新聞の創業者の一人、村山龍平が数千坪の土地を取得。船場の商人たちは「正気を失ったのではないか」と唖然としたそうだが、村山はここに豪邸を建て、その地は現在香雪美術館になっている。これが開発の嚆矢でもあり、郊外住宅地の黎明ともいわれている。
村山に続いて住友銀行初代頭取の田辺貞吉、住友家の総理事の鈴木馬左也も広大な土地を取得。さらに明治40年(1907)頃に阿部元太郎が住吉川沿いの観音林、反高林の土地を開発、住宅地の譲渡をおこない、東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。その後も住友本邸、東洋紡社長の小寺源吾邸、鐘紡社長の武藤山治邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、野村財閥の野村徳七邸、大林組社長の大林義雄邸、乾汽船社長の乾豊彦邸、武田薬品社長の武田長兵衛邸、伊藤忠の創業者の伊藤忠兵衛邸、岩井商店主の岩井勝次郎邸、東京海上社長の平生釟三郎邸などが建ち、住吉村は「日本一の長者村」の名をほしいままにした。
住吉川の東岸は本山村になるが、ここにも日立鉱山社長の久原房之助が一万坪超の土地(現在のオーキッドコート一帯)に洋館、和館、宴会場まで設け、フラミンゴを飼っていたという逸話も残っている。ちなみに、当時は富裕層のコミュニケーションの場として茶の湯が盛んであり、これらの大邸宅の多くには茶室が設けられていた。
住吉の住人たちは社会基盤も整備していった。阿部元太郎、田辺貞吉、建築家の野口孫市はコミュニティ醸成のため「観音林倶楽部」を設置、ビリヤードや散髪もできるクラブハウスを設けた。さらに明治44年(1911)に甲南幼稚園を開園し、やがて平生釟三郎の尽力もあり甲南学園へと発展する。平生は病院の必要性も感じ、甲南病院を開院した。
住吉は今なお関西屈指の人気の住宅地だが、その基盤は先人たちによって築かれたのである。
魚崎
魚崎町(うおざきちょう)は、兵庫県武庫郡に属した町で、1914年(大正3年)5月に魚崎村から単独町制施行により成立し、1950年(昭和25年)に同県神戸市に併合されて東灘区の一部となった。
現行町名(昭和44〜45年制定)では魚崎南町、魚崎中町、魚崎北町、魚崎西町および甲南町3・4・5丁目の各一部が旧町域にあたる(魚崎浜町は人工島であり、当時は存在しなかった)。
魚崎村は市町村制施行時に、商家の多 かった魚崎村(住吉川河口部両岸)と農村地帯である横屋村(住吉川左岸から天上川河口右岸の間)が合併して成立した。両地域とも町村制時代に著しく都市化が進み、空襲の被害を激しく蒙ったが、富豪の屋敷の跡地に住宅が立ち並んで、復興は進んだ。
左は、神戸酒心館(福寿)